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vendredi 26 décembre 2008

コルネイユ的選択

 下手な日本人なら「さすがフランス人、哲学的なことを話すものだ!」とかんちがいしてしまうような表現がフランス語にはいくつか見受けられます。哲学者や作家などの固有名詞を会話にはさみこむと高等な会話をしているかのような気分になってしまうひとはいつの世にもいますが、自分がそうだからといって他のひともそうだと考えるのは早合点というものでしょう。日本人から見ると高尚なことを話しているように聞こえる表現でも、フランス人にとっては必ずしもそうではないということがよくあります。ヴァンサン・ドレルムという歌手は歌詞のなかにいろいろな固有名詞をはさむのが好きですが、これは「ネイム・ドロッピング(name dropping)」というもので、ただの芸風であって、別に高尚なものではありません。ハイソなのは確かですけれど。ちなみにネイム・ドロッピングということばは、フランス語でも英語で云います。
 フランス語には「パスカルの賭け」(pari pascalien)という表現があります。たとえばむかしの「国境なき医師団」の代表で、現在は「飢餓と闘う会」で活躍し、小説を書いてゴンクール賞もとったロニー・ブローマンはナチスドイツの「ユダヤ人問題専門」であったアイヒマンの裁判記録を編集したドキュメンタリー『ある専門家』という自らが制作した映画について、「これはパスカル的な賭けである」ということを云っていました。アイヒマンは裁判において「私はただ命令に従っただけである」ということを主張しました。「もしそれが本当だったとしたらどうなのか」という仮定をブローマンが信じようとしたということを、この「パスカル的な賭け」ということばは意味しています。もちろん彼はハンナ・アーレントの本『イェルサレムのアイヒマン』を念頭に置いてこのようなことを云っているのですが、「アイヒマンは確かに命令に従っただけだったのかもしれないが、命令に従ったがゆえに有罪である」という単純な結論にブローマンが達してしまったのは残念なことだった」と思います。
 多くの正義漢はこう云います。「ナチスドイツ時代にすべてのドイツ人がナチス政府を支持していたというのは嘘だ。この制度と闘ったドイツ人がかなりの数いたのだ」と。しかしそのような倫理的な強度をすべてのひとに求めるのはどういうものかと思います。平凡な人間にとっては、命令に従っている方が抵抗するよりもずっと楽であるようなときに、その命令が倫理に反するものであるからといって、抵抗しないで命令に従ったのが罪であるとすることができるものでしょうか。法制度とは決してまったく融通の効かないものではないとはしても、第三帝国の役人であったアイヒマンがイスラエルで死刑になったことについては、私は首をかしげざるをえません。「アイヒマンは弱かった」ということは事実でしょう。しかし弱かったからと云って死刑に値するものでしょうか。あまりに多くのユダヤ人が無意味に虐殺されたことに落とし前をつけるために、この死刑が必要だったということなのでしょうか。アーレントは「凡庸な悪」ということを云いました。悪の芽が多くの人間のなかに巣喰っているのです。しかし私ならむしろ「凡庸の悪」と云うでしょう。凡庸であることが悪なのです。これからは、凡庸な人間がより少なくなってゆくような教育が必要とされることになるでしょう。
 話がそれました。この「パスカル的な賭け」というのはどのようなものでしょうか。私はパスカルの思想を語るつもりはありません。そのつもりもないし、このフランス語の表現を理解するためには、その必要もないというのが、この記事の趣旨です。そもそも私にはその能力がありません。
 キリスト教は、死後も魂が生き延びるということを想定します。神を信じないものは、死後の生などというものは存在するはずがないのだから、死後の生のために宗教の規律を厳格に守るのはばかげたことだと考えます。「パスカルの賭け」とは、もし死後の生が存在しないのだとしたら、私が生きている間に死後の生を信じて自らを律したとしても、そのために死後に何も失うものはないのだから、あえて死後の生が存在する方に賭けてみようと考えるということです。無神論者にとっては、きわめて論理的な思考が可能であるような人間にどうして神のようなわけのわからないものが信じられるのかしばしば疑問ですが、「パスカルの賭け」は知性的な人間の信仰を説明することが可能なものです。
 現代フランス語で pari pascalien という言い回しを使うひとは、「まったく信じられない嘘であるとみえることを、身を賭してあえて信じてみよう」という決意を表明しているのです。「みんなにはどうして私がこんなたわごとを信じるのかわからないだろうけれども、私はあえて信じてみる」ということをこの言い回しは意味しています。
 この「パスカルの賭け」という表現は、それでもかなり気どった知的なものです。まだその表現の元の意味を保持しているということが云えます。しかし「コルネイユ的選択」(choix cornélien)の方は元の意味が忘れられかけていると考えることができます。
 テレビでもラジオでも、クイズ番組でこの言い回しをよく耳にします。ここでやめたら賞金をもちかえられるけれども、次のクイズに答えたら賞金が二倍になる、しかしもしまちがえたら賞金を失うことになる、というような場合に、「コルネイユ的選択」が問題になります。最初に云いましたが、何も「さすがフランス人、こんなときにも文学が問題になるのだ!」というようなものではないのです。それは日本人が弁慶の泣きどころが痛いと云っているときに、「さすが日本人、このような場合にも歴史に言及するのだ!」と感心するようなものです。
 「コルネイユ的選択」は今やほぼ「むずかしい選択」の意味でしか用いられませんが、本来は「しなければならない選択について、義務と心情に引き裂かれる状態」を意味しています。心情としては愛するひととともにとどまりたいが、義務のために戦地におもむかなければならない、というようなものです。義務に対して心情が優位をもつ選択がありうるというあたり、典型的な日本人には少し理解がむずかしいかもしれませんね。
 クイズ番組で「ここでやめておいた方がいいのかなあ、でもどうにも後ろ髪をひかれる思いだ」というような場合に「コルネイユ的選択」の話をするのは、本来であればちゃんちゃらおかしいのですが、かなり頻繁に耳にする表現です。それでもこれが「義務と心情に引き裂かれる選択」であるという定義は、みんな「話すときには忘れていても、知識としてはもっている」ので、「この場合、いったい何が義務で何が心情なんだよ!」と聞けば、きっと答えてくれるかとは思いますが、たぶん言いわけがましいことしか聞けないでしょう。