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lundi 6 avril 2009

どれにしようかな

 日本の子供が複数の選択肢を前にして、「まあいいや」といい加減に決めるときに、「どれにしようかな、神様の云うとおり」とか「天神様の云うとおり」なんて云って選ぶことがあります。フランスにもそういう一種の「数え唄」のヴァリエイションのようなものはあるのでしょうか。
 あります。しかしフランス語ではありません。フランス語ではないからといって何語なのかはよくわかりません。「歌詞」は次のようなものです。
Ams, tram, gram,
Pic et pic et colégram,
Bour et bour et ratatam,
Ams, tram, gram...
 4行目は1行目の繰り返しで、この3行を延々と繰り返すことができます。参考までにだいたいのかたかなを記しておくと、「アムス、トラム、グラム。ピケピケコレグラム。ブーレブーレラタタム。アムス、トラム、グラム…」というような感じです。
 もともとはドイツ語からきているとかスカンジナヴィア起源であるとかいろいろな説がありますが、まあ、おそらくまゆつばものですね。


jeudi 8 janvier 2009

鳩はフランス語で

 何でもないようなことでも、よく考えてみると不思議なことがよくあります。フランス語では、「鳩」を意味する単語に pigeon と colombe がありますが、さて、このふたつの単語は同じ「鳩」のことを云っているのでしょうか、それともちがうものを意味しているのでしょうか。
 答えは単純で、これはちがうものです。Pigeon は鳥の「鳩」を意味する普通の単語ですが、colombe の方は「平和の象徴」である、一般には白い鳩のことです。聖書からの引用、あるいは聖書の模倣として用いられるといいます。Pigeon は総括的にあらゆる種類の鳩を意味しえますが、この単語は比喩的に「だまされやすいお人好し」、つまり日本語では「カモ」にあたるものも意味します。だから政治における「タカ派(faucons)」、「ハト派」の「ハト派」は pigeon ではなくて colombe でなければなりません。素直な「ハト派」が pigeons なら大笑いです。Plumer le pigeon という表現は「鳩の羽をむしる」、すなわち「カモを身ぐるみ剝がす」です。
 類義語としてもうひとつ tourtereau があります。これは辞書を引くと「キジバト」と書いてあります。しかしこの単語でイメージ検索をかけても、ほとんど鳥の写真が出てきません。これを tourterelle と変えると鳥が出てきます。Tourterelle は「若い tourtereau」ということになっています。



 それでも、tourtereau の方では鳥の絵が出てこないということは、この単語は比喩的な意味でとらえられることの方が多いということを意味しています。この単語はしばしば複数形 tourtereaux で「仲むつまじいカップル」、つまり「おしどり夫婦」を意味します。フランス語では「鳩」であるものが日本語では「カモ」であるのと同様、この場合は比喩的表現において、日本語では「オシドリ」であるものがフランス語では「キジバト」なのです。
 動物の名前は一般にむずかしいということが云えます。例えば今年は「丑年」ですが、これはフランス語で何と云うのでしょうか。「牛」を意味する単語には、たとえば bœuf, vache, taureau などがありますが、どの単語を用いるべきでしょう。
 結構 l'année du buffle と云う場合が多いようです。「水牛年」ですね。フランスではこういった干支は中国のものと考えられています。だから日本の「丑年」は「水牛年」ではないぞ、と主張することもできるかもしれません。L'année du bœuf という言い方もありますが、どうもピンときません。フランスでは干支占いのことを「中国風占星術」(astrologie chinoise)と云いますが、こういったことをフランスでは最近云いはじめたので、まだひとつの言い方が定着していないということが云えるでしょう。私は何となく日本の年賀状のイメージが頭を離れなかったので l'année de vache と云うものかと思っていたのですが、この単語には「意地悪」の意味があるので、こうは云わないのかもしれません。Une année vache と云うと、「ひどい一年」になります。日本の新年について l'année de la vache と書いているものが、ごくごく少数ながら見受けられます。
 一方「西洋占星術」の「牡牛座」は taureau で、変わることがありません。フランス語では、「双子座」が gémeaux (jumeaux ではない)で複数形であるのは単純に理解できることですが、「魚座」も poissons で複数形なので気をつけましょう。

jeudi 1 janvier 2009

年末年始のお祝いに

 よく聞くことばだが、生半可な知識でしかないものに、「フランス語では必ず冠詞をつける」というものがあります。これは非常に困ったかんちがいであります。そんなフランス語を話していると、「まったく、どこにでも冠詞をつけてればいいと思ってんじゃないよ」とフランス人にあきれられることになります。
 たとえば、年末のクリスマスなどの時期にお祝いを云うときには、Bonnes fêtes de fin d'année と云います。だれも Bonnes fêtes de la fin de l'année なんてくどくどしいことは云いません。そんなことを云うのは生半可な日本人だけです。これは「年の終わりの…」と云えばいいところを、「この年のこの終わりの…」と云っているのだから、実に聞きづらいわけです。
 どこに冠詞をつければいいかどうかという問題は、しばしばフランス人にとってもむずかしいことです。それでも決まった言い回しは滅多に変わらないということを理解しなければなりません。
 失恋(の痛手)のことを Chagrin d'amour と云います。これを何となく「変えてみようかな」と考えて Chagrin de l'amour と云うことはできません。「できません」ですませてしまえばいいのですが、どうしてこれができないのかと頭を悩ませるひともなかにはいるでしょう。その理由のもっとも大きなものは、「冠詞をつけると理解がむずかしい」というものです。いつも冠詞をつけない表現にあえて冠詞をつけているのだから、その冠詞がどのような意図によってつけられたものであるのかを聞き手は理解しようとしなければなりません。まずここで聞き手に無駄な労力が強いられることになります。
 この冠詞が指示の機能をもっているとすれば、これは「この愛の痛み」ということになるでしょう。この場合、この chagrin de l'amour という表現は、他の失恋ではなくて、まさに「この恋」だけにともなう痛みのことを云っているのだということになります。これは本人にしかわからないことであるから、依然として理解がむずかしいということが云えます。もっともこれは「どうしてつけなくてもいいところに冠詞がついているのか」ということから考えはじめたものですから、そもそもこの解釈が合っているとかおかしいとかいうような性質のものではありません。
 もしこの冠詞が一般的な愛のことを意味しているのであれば、この chagrin de l'amour という表現は愛というものに必然的にともなう痛みを意味することになります。「愛のもっている悲しみ」ということです。もちろんそのような考え方をすることはできますが、一般的には、失恋ということばはそのようなことを云っているのではありません。愛には喜びも痛みもさまざまあるけれども、chagrin d'amour という決まった言い回しは、その痛みの方を云っているのです。
 決まった表現が存在する場合には、何も頭を悩ませないで決まった表現を用いていればいいのですが、作家がどのような意図から冠詞を用いているのか、あるいは用いていないのかという問題は、ときに熟考を要求することになります。(あくまで「ときに」です。いつもこんなことを考えていたら読みすすむことができません。)
 サド侯爵に Les Crimes de l'amour という短編集があります。これを『恋の罪』と訳したひとがいます。しかし恋にともなうこともあれば、ともなわないこともある「恋の罪」ということを云いたいのであれば、Les Crimes d'amour で十分でしょう。なぜここに冠詞がついているのかと考えてみると、これは「愛に必然的にともなう罪」のことを意味しているのだと理解すべきだということになるでしょう。私であれば、『愛という名の罪』と訳すところですが、しかしこれは Les Crimes de l'amour ということばが「愛という名の罪」という日本語に相当するのだということを云っているではありません。ただ、この「愛という名の罪」ということばが、「愛のもっている罪」という原題の意味に近いのではないかと私は考えるのです。

vendredi 26 décembre 2008

コルネイユ的選択

 下手な日本人なら「さすがフランス人、哲学的なことを話すものだ!」とかんちがいしてしまうような表現がフランス語にはいくつか見受けられます。哲学者や作家などの固有名詞を会話にはさみこむと高等な会話をしているかのような気分になってしまうひとはいつの世にもいますが、自分がそうだからといって他のひともそうだと考えるのは早合点というものでしょう。日本人から見ると高尚なことを話しているように聞こえる表現でも、フランス人にとっては必ずしもそうではないということがよくあります。ヴァンサン・ドレルムという歌手は歌詞のなかにいろいろな固有名詞をはさむのが好きですが、これは「ネイム・ドロッピング(name dropping)」というもので、ただの芸風であって、別に高尚なものではありません。ハイソなのは確かですけれど。ちなみにネイム・ドロッピングということばは、フランス語でも英語で云います。
 フランス語には「パスカルの賭け」(pari pascalien)という表現があります。たとえばむかしの「国境なき医師団」の代表で、現在は「飢餓と闘う会」で活躍し、小説を書いてゴンクール賞もとったロニー・ブローマンはナチスドイツの「ユダヤ人問題専門」であったアイヒマンの裁判記録を編集したドキュメンタリー『ある専門家』という自らが制作した映画について、「これはパスカル的な賭けである」ということを云っていました。アイヒマンは裁判において「私はただ命令に従っただけである」ということを主張しました。「もしそれが本当だったとしたらどうなのか」という仮定をブローマンが信じようとしたということを、この「パスカル的な賭け」ということばは意味しています。もちろん彼はハンナ・アーレントの本『イェルサレムのアイヒマン』を念頭に置いてこのようなことを云っているのですが、「アイヒマンは確かに命令に従っただけだったのかもしれないが、命令に従ったがゆえに有罪である」という単純な結論にブローマンが達してしまったのは残念なことだった」と思います。
 多くの正義漢はこう云います。「ナチスドイツ時代にすべてのドイツ人がナチス政府を支持していたというのは嘘だ。この制度と闘ったドイツ人がかなりの数いたのだ」と。しかしそのような倫理的な強度をすべてのひとに求めるのはどういうものかと思います。平凡な人間にとっては、命令に従っている方が抵抗するよりもずっと楽であるようなときに、その命令が倫理に反するものであるからといって、抵抗しないで命令に従ったのが罪であるとすることができるものでしょうか。法制度とは決してまったく融通の効かないものではないとはしても、第三帝国の役人であったアイヒマンがイスラエルで死刑になったことについては、私は首をかしげざるをえません。「アイヒマンは弱かった」ということは事実でしょう。しかし弱かったからと云って死刑に値するものでしょうか。あまりに多くのユダヤ人が無意味に虐殺されたことに落とし前をつけるために、この死刑が必要だったということなのでしょうか。アーレントは「凡庸な悪」ということを云いました。悪の芽が多くの人間のなかに巣喰っているのです。しかし私ならむしろ「凡庸の悪」と云うでしょう。凡庸であることが悪なのです。これからは、凡庸な人間がより少なくなってゆくような教育が必要とされることになるでしょう。
 話がそれました。この「パスカル的な賭け」というのはどのようなものでしょうか。私はパスカルの思想を語るつもりはありません。そのつもりもないし、このフランス語の表現を理解するためには、その必要もないというのが、この記事の趣旨です。そもそも私にはその能力がありません。
 キリスト教は、死後も魂が生き延びるということを想定します。神を信じないものは、死後の生などというものは存在するはずがないのだから、死後の生のために宗教の規律を厳格に守るのはばかげたことだと考えます。「パスカルの賭け」とは、もし死後の生が存在しないのだとしたら、私が生きている間に死後の生を信じて自らを律したとしても、そのために死後に何も失うものはないのだから、あえて死後の生が存在する方に賭けてみようと考えるということです。無神論者にとっては、きわめて論理的な思考が可能であるような人間にどうして神のようなわけのわからないものが信じられるのかしばしば疑問ですが、「パスカルの賭け」は知性的な人間の信仰を説明することが可能なものです。
 現代フランス語で pari pascalien という言い回しを使うひとは、「まったく信じられない嘘であるとみえることを、身を賭してあえて信じてみよう」という決意を表明しているのです。「みんなにはどうして私がこんなたわごとを信じるのかわからないだろうけれども、私はあえて信じてみる」ということをこの言い回しは意味しています。
 この「パスカルの賭け」という表現は、それでもかなり気どった知的なものです。まだその表現の元の意味を保持しているということが云えます。しかし「コルネイユ的選択」(choix cornélien)の方は元の意味が忘れられかけていると考えることができます。
 テレビでもラジオでも、クイズ番組でこの言い回しをよく耳にします。ここでやめたら賞金をもちかえられるけれども、次のクイズに答えたら賞金が二倍になる、しかしもしまちがえたら賞金を失うことになる、というような場合に、「コルネイユ的選択」が問題になります。最初に云いましたが、何も「さすがフランス人、こんなときにも文学が問題になるのだ!」というようなものではないのです。それは日本人が弁慶の泣きどころが痛いと云っているときに、「さすが日本人、このような場合にも歴史に言及するのだ!」と感心するようなものです。
 「コルネイユ的選択」は今やほぼ「むずかしい選択」の意味でしか用いられませんが、本来は「しなければならない選択について、義務と心情に引き裂かれる状態」を意味しています。心情としては愛するひととともにとどまりたいが、義務のために戦地におもむかなければならない、というようなものです。義務に対して心情が優位をもつ選択がありうるというあたり、典型的な日本人には少し理解がむずかしいかもしれませんね。
 クイズ番組で「ここでやめておいた方がいいのかなあ、でもどうにも後ろ髪をひかれる思いだ」というような場合に「コルネイユ的選択」の話をするのは、本来であればちゃんちゃらおかしいのですが、かなり頻繁に耳にする表現です。それでもこれが「義務と心情に引き裂かれる選択」であるという定義は、みんな「話すときには忘れていても、知識としてはもっている」ので、「この場合、いったい何が義務で何が心情なんだよ!」と聞けば、きっと答えてくれるかとは思いますが、たぶん言いわけがましいことしか聞けないでしょう。

dimanche 16 novembre 2008

石筍の反対は?

 別のブログの方で、「英語話者は pithecanthrop(us) という単語を知らない」という鈴木孝夫先生の妙な説を紹介しました。そこで「日本人は知らないが、フランス人は子供でも知っている、一見むずかしい単語はなかったか」と考えてみました。これはどうでしょう。Stalactite と stalagmite です。
 Stalactite はこれです。

 仏和辞書を見ると「鍾乳石」と書いてあるんだが、「つらら」ですね。フランス語の辞書を見ると、ちゃんと「上から下へ伸びる」と定義のなかにあります。鍾乳洞の上からぶら下がっているつららばかりではなくて、氷のつららにもこの単語をよく使います。一方 stalagmite はといえばこれです。

 日本語では「石筍」(せきじゅん)といいます。Stalactite と stalagmite は対になったことばですが、日本語で「石筍」の反対語の対になることばは何というのでしょうか。これは「日本人は知らない」というよりも、「日本語には存在しない」ものなのかもしれません。地質学の用語はあるのでしょうか。
 これは「フランス人は子供でも知っている」というよりは、大人になるとどっちがどっちだかわからなくなる、といったたぐいのものかもしれません

mercredi 12 novembre 2008

きみは愛だ

見た目は何ということのない表現でも、いざ日本語にしようとすると、はたと困ってしまうことがあります。
 たとえば、Tu es un amour。これはどう訳したものでしょうか。
 Wordreference.com のフォーラムでこのことばの英訳について議論されています。スレッドを立ち上げたフランス人は、you're lovely じゃないし、you're a love も奇妙だと云っています。なかにはフランス語が母語のひとが you're a sweetheart の意味だと云っていたりと、ちょっと首を傾げるところもあります。これはどう考えても sweetheart という意味ではありません。ここで英訳として提案されているものでは、私は you're adorable をとります。Sweetheart じゃなくて、ここには書いていないけれども、 you're (so) sweet だといいんじゃないかな。(Wordreference.com は結構仏英・英仏のオンライン辞書サーヴィスが役に立ちます。)
 英語だと you're adorable でいいのではないかと思うのですが、日本語にするとなるとどうなるでしょう。私もこのことばを云われたことがありますが、それは気前よく手伝いをしたときなどです。おそらく相手がその手伝いを期待していなかったときに云うものでしょう。「ありがとう」と同じものではありませんが、雰囲気で云うと「本当にいいひとね」という感じではないでしょうか。私は成年の女性にしか云われたことがありませんが、成年の男性同士で云うことばではないと思います。たぶん女性同士では可能ではないのかという気がします。私は女性でも自分より年上か同年代のひとによくこのことばを云われたような気がしますが、この表現を可能にする年齢関係などもかなり微妙かもしれません。「これはいい表現だ」と日本人が喜んで真似をするにはリスクが大きい表現だと思います。
 他にはどのような場合に云われるかというと、例えば子供が学芸会でお芝居などした後で、親が子供に対して云うかもしれません。この場合は「すばらしかった」「とってもよかったよ」ということでしょう。どちらにしろ、「この表現の訳はこれです」というようなものは見つかりません。よく考えてみると、英語では you're sweet がいちばんいいような気がするので、だいたいそんな感じだと考えてみるといいと思います。
 こういう表現は、見た目だけは初歩の初歩のフランス語ですが、「きみは愛だ」と訳してもまったく逃げにさえならないので気をつけましょう。

dimanche 9 novembre 2008

オレオレ写真

 日本では「オレオレ詐欺」が流行っているという話を初めて聞いたとき、それが「俺」の連呼であるということがすぐにぴんときませんでした。
 フランス語には olé olé 「オレオレ」ということばがあります。これもまた日本語に訳しにくい単語です。語源はカフェオレとは関係がなくて、スペイン語起源です。フラメンコで男女が絡み合って踊るときに、「オーレ!」と声をかけるところから来ています。この「オーレ!」と声をかけるのを、観光客気分でするのか、それともすけべおやじ的な気分でするのかが問題です。このフランス語の単語の発想において、「オーレ!」は、日本では「ヒューヒュー」というような下品な冷やかしの感じでかけられることばです。御本家スペインのことはわかりませんが、少なくとも日本人が「オーレ!」ということばから発想するものとはかなりちがうでしょう。
 フランス語の olé olé は不変化の形容詞で、たとえば photo olé olé は、しばしばヌード写真です。ヌード写真でも、芸術的な価値が高い(とされる)ものではなく、男性雑誌に載っているような興味本位の写真を考えるべきでしょう。かといってこういった「ヌード写真」(photo de nu)がいつも photo olé olé と呼ばれるわけではなくて、ぼかした口語表現のひとつです。(男性向けの女性の写真でソフトなものは photos de charme といいます。)
 この olé olé という単語の訳としては、「エッチ」「下品」「挑発的」「煽情的」などが考えられるでしょう。
 フランス語の Wiktionnaire にはふたつ例文が載っています。
Pris de boisson, il se mit à raconter des histoires olé olé.
(訳) 男は酔っ払ってエッチな話(下ねた)を話しだした。
La mercière a mis en vitrine des sous-vêtements très olé olé.
(訳) 洋品店の女はショウウィンドウにとても挑発的な下着を飾った。
 これは「挑発的」とも訳せますが、「大胆」とも訳せるものです。(ちなみに très と olé olé をリエゾンすると笑われます。リエゾンするって変なことば。) 大胆な水着でも大胆なポーズでも「オレオレ」です。あまり上品なひとが口に出すような品のいいことばではありませんが、かといって直接的な単語でもありません。ふだんこんなことばを使わないひとにとっては、適当なことばがない(口に出すのがはばかられる)から、ちょっぴり困って云うような感じかもしれません。「エッチ」と同じで、直接的ではないからこそかえってエッチだということが云えるでしょう。それでも、たとえば平気で下ねたを口にする女の子は、フランスでは「オレオレ」でありえますが、かといってそういう女の子は、必ずしも日本でエッチだとか挑発的だとか考えられるというわけではないようです。セクシーなつもりでどう見ても品がないような格好をしている女の子が日本にはいまでもいますが、ああいうのはフランスに行ったらオレオレですね。これはあらゆる口語表現と同様、なかなかひとつの決定的な訳語を当てはめるのがむずかしい単語です。
 「オレオレ」ということばの語感は、日本語では下品なことを思わせないでしょう。フランス語の擬音語・擬態語に、guili-guili 「ギリギリ」というものがありますが、これは日本で云うと「コチョコチョ」にあたります。これも日本語の語感とはかなりかけ離れています。擬態語は日本語にしかないなんてことを云うひとがいますけれども、くすぐるときには音が出ないのだから、この「ギリギリ」はくすぐるしぐさを示す擬態語ではないのかと思うのですが、どうでしょうか。